――元々はアサヒビールの営業職でした。
今も楽しいけど、ビールの営業もエキサイティングでしたよ。例えばある焼肉担当していたんですが、おなじ日に4店が同時にオープンするんですよ。取引先ですから全てに顔を出します。当然お酒も食事も頂きます。売り上げは自分で稼がないといけませんから。でもチェーン店だからテーブルに並ぶものが全部一緒(笑)。おいしいですけどね。あと1日で大瓶1ケースを空にすることもありました。冗談とはいえ、健康診断の結果が悪い方が褒められるというおかしな日々でした。
――大きな会社を辞めて日本酒業界に足を踏み入れたのはなぜ?
アサヒビールには全国の酒蔵から修行に来る若者がたくさんいるんですよ。3年ほど営業の仕方などを研修するんです。入社6年目あたりの社員が彼らを指導するんですが、私に付いたのが青森の酒蔵から来た子でした。彼が日本酒業界の様々な状況を説明し「ビールメーカーで活躍する人が業界に入ってくれたら面白くなる」と誘惑してくるんです20歳そこそこの若者の言葉を真に受けてしまった。(笑)。
退社を決断したのが29歳。ちょうどアサヒビールも中途でたくさん人材を採り始めていて、「このままではエスカレーター式に出世できないぞ」という危機感がありました。社長になってみたいという思いもありましたしね。
――アメフトのクラブチームの司令塔として日本一も経験したそうですね。
選手は70人いたけれど社員は7人だけ。会社がスポンサーなだけで、寄せ集めのクラブチームなんです。練習はみんなの仕事が終わった後。仕事は仕事、アメフトはアメフト。アサヒビールの社員だろうが、全然優遇去れない。練習は午後8時半から11時まで。仕事終わってからの練習ですよ。だから営業先でお酒を飲んでからグラウンドに行くこともありました。本当はダメですよ(笑)。
――アメフトの経験はいきていますか。
アメフトって分業制なんですよ。サッカーとか野球って運動神経が良くないとダメでしょう? でもアメフトは「足が速い」「体がデカい」「キャッチするのがうまい」などと特長があればいい。あとはそれがどうかみ合うか。会社経営は適材適所が大切ですから、そこはアメフトと同じ。アメフト出身の経営者って結構多いんですよ。
――日本酒キャピタルは魚津唯一の酒蔵「本江酒造」から株式の3分の2を譲り受けました。社名を「魚津酒造」に変更し、「北洋」を主力ブランドとして田中社長が先頭に立って経営を建て直そうとしています。
M&Aというと企業買収のイメージが強いですけど、私は「事業承継」と言っています。欲しいから手に入れるんじゃなくて、困っている助けたい。
でもね、お話を頂いた時は迷ったんですよ。私は日本酒と焼酎を含め、東北から九州まで12の酒蔵の再建に関っています。その経験をもってしても、本当に断ろうかと迷ったくらいひどい蔵の状態でした。
地元の飲料店や魚津市の議員の方と2日間にわたってタウンミーティングのようなことををした。そしたら皆さんが口をそろえて「酒造がなくなったら困る。絶対に応援する」と言ってくださった。だから数字も悪いし、蔵も汚くてお金もかかりそうだけど一緒に頑張ろうと決めました。幸運にも良い杜氏が見つかり、再建は順調です。順調にファンを増やしています。
――日本酒の製造量はピーク時の4分の1。逆風が吹く中で蔵の再建事業は大変ですか?
ダメなところを直すだけだから楽観的です。いろいろな蔵を見て具体的な問題を把握しているから、杜氏や蔵人には簡単に指摘できる。蔵の中にずっと長くいる人は何が正解で何が間違ってるか分からないけど、私には見えるものがある。その映像を共有してもらうだけです。
まあ、メチャメチャ苦労しているというのが本音です。でも苦労話をするよりも、楽しいですって言い続けてる方がいい。蔵の再生でも長所が伸びれば短所をカバーできるはず。
日本酒市場のことを言うなら出口を増やすしかない。海外で人気が出れば、逆輸入されて日本の若者にも人気が出る。大切なのは海外の小売店や飲食店にいかにアプローチしてゆくかですね。今度うちのグループで香港に小売店を出すんですよ。成功したらさらに海外展開を闘います。
――心掛けていることは?
会社って難しいんですよ。売り上げが上がって毎日忙しくなればいいというのは経営者側の考え。蔵の人たちは意外と違う。稼げなくてもいいからこれ以上忙しくなりたくないと考えたりもする。でも、「このお酒がおいしい」という声は効くんですよ。一緒に飲食店に行って「変わったよね。おいしくなったよね」という感想をもらったら「彼が作ったんですよ」と紹介する。お客様の言葉で意識が変わる。意気揚々と働き出す。その瞬間に立ち会えるのはすごく楽しい。
――会社のホームページでは「街から日本酒の灯を消さない。酒づくりは街づくり」という言葉を掲げていますね。どんな思いをこめていますか?
街は酒蔵を中心に発展しました。酒蔵が地方都市の中心だったんですよ。元気な酒蔵がある街は元気だった。酒蔵は街のシンボルとして誇りに思ってもらえないといけない。売り上げが県外や海外で増えるとしても、地元で支持されないと酒蔵として生き残る価値がない。
アサヒビール時代も一緒。自分のエリアでいかに他社からアサヒビールに切り替えてもらうか工夫し続けてました。街のナンバーワンでありたいという思いは変わりません。
北日本新聞 ゼロニイ 10月(聞き手:田尻秀幸)
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